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宮崎県の西南戦争の場所は?西郷隆盛宿陣跡資料館の場所、アクセスは?耳川の戦いと和田超の戦いは?

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NHK大河ドラマ「西郷どん」では、鹿児島市が注目されてますが、「せごどん」後半の日本最後の内戦「西南戦争」では、宮崎県北部、延岡市にも「西郷どん」主人公の西郷隆盛は登場しています。

そこで今回は、薩摩軍が鹿児島を出発してから鹿児島に戻ってくるまでのたどった経過と西郷隆盛宿陣跡資料館、宮崎県北部での薩摩軍と政府軍が戦った「耳川の戦い」と「和田超の戦い」について紹介します。

西南戦争での薩摩軍が鹿児島を出発して鹿児島に戻ってくるまでの経過は?

◆2月15日:薩摩軍が鹿児島を出発(西郷どんは2月17日出発)

◆2月22日:熊本城攻撃始まる

◆3月4日~3月20日:田原坂の戦い

◆7月29日:西郷どん宮崎出発

◆8月2日:西郷どん延岡に入る

◆8月4日~8月9日:耳川の戦い(美々津の戦い)

◆8月15日:和田超の戦い

◆8月17日:西郷どん俵野・可愛岳脱出

◆9月1日:西郷どん鹿児島に帰る

耳川の戦い(美々津の戦い)では?

耳川の戦い(美々津の戦い)では、8月4日~8月9日にかけて耳川左岸に薩摩軍、右岸に政府軍が山陰(やまげ)方面まで布陣しました。

大貫(延岡市)に滞在していた西郷隆盛は、現地の兵士に檄文を送っています。戦闘は連日嵐の中で行われ、耳川の激流にのまれる兵士もいて、双方に多数の犠牲者を出しました。

美々津余瀬には、40柱以上の薩摩軍兵士の小さな無名墓標が並んでいます。

和田超の戦いでは?

明治10年(1877年)8月15日、西南戦争最後の決戦場となった和田越は、海抜40mほどの小高い丘陵の鞍部です。薩摩軍はここを中心に、約3kmにわたる尾根に沿って約3500人の兵士が布陣しました。ちなみに、和田越の麓には延岡市立東海中学校があり、校歌の中でも和田越のことが歌われています。

対する政府軍(官軍)は、和田越正面の稲葉崎、大武方面、ほかに東海、熊野江、市棚、祝子方面など、和田越を囲むように約5万人の兵士を配置しました。

さらに軍艦5隻を五ヶ瀬川河口に並べ、砲身を和田越方向に向けていました。

西郷隆盛は、この戦いで初めて戦場に姿を見せて陣頭指揮を執りました。薩摩軍兵士の士気が大いに高まったことは言うまでもありません。

一方、政府軍(官軍)の山縣有朋は、1.5kmほど南の堅山の頂上に立ち、西郷隆盛の存在を確認しています。戦場で両軍の将が合いまみえることは珍しいことだそうです。

8月15日早朝、戦いの火ぶたが切られ、薩摩軍は死力を尽くして戦いましたが、多勢に無勢です。西郷隆盛は弾丸飛び交う中に身を置いていましたが、桐野利秋ら部下が心配して山から降ろし、その後、兵を引き揚げて俵野(ひょうの)に後退しました。和田越の戦いの薩摩軍と政府軍(官軍)の戦死者は、300人を超えました。

8月16日に西郷隆盛は、北川の俵野で薩摩軍を解散しました。翌17日から18日にかけて可愛岳を突破し、三田井(高千穂)、神門、小林などを経由して9月1日に鹿児島に帰り着きました。

西郷隆盛宿陣跡資料館の場所、時間、アクセス、駐車場は?

西郷隆盛は、俵野にある児玉熊四郎宅に宿をとり、ここで薩摩軍最後の軍議が開かれました。軍議には、西郷隆盛を中心に桐野利秋、村田新八、別府晋介などの幹部らが出席しました。

8月16日、西郷隆盛は解軍令を出し、西郷自らも明治天皇から賜った陸軍大将服を燃やしました。薩摩軍が解散した後は、残りの軍隊を「西郷軍」と呼んでいます。

この軍議の開かれた児玉宅は延岡市が買収し、「西郷隆盛宿陣跡資料館」として、西郷隆盛の遺品をはじめ、西南戦争関係の資料を展示しています。

◆場所:延岡市北川町長井6727

◆入館料:無料

◆開館時間:午前9時~午後5時

◆定休日:月曜(祝日の場合翌日)

◆アクセス:東九州自動車道北川ICから車で5分

◆駐車場:あり(無料)

◆お問い合わせ:0982-46-2960

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